夜。
たろう君は目を覚ましました。
時計の針は、もうすっかり22時を回っていました。
車の走る音や人の話し声が聞こえない、いつも通り、静かな夜の町でした。
たろう君は、泣き腫らしたせいで真っ赤になった目を擦り、いつものように双眼鏡で、家の近くの湖を、恐る恐る覗きました。
たろう君は、ハッと息を飲みました。湖の側には、丸焦げになった死体が見えたからです。
たろう君は、この日、大切な友達を見殺しにしました。
【たろう君とピカチュウ】その町にたろう君が引越しをしてきたのは、一ヶ月ほど前のことでした。
たろう君のお父さんは、いわゆる「テンキンゾク」なので、一年に数回、違う町に引っ越さなければならなかったのです。
たろう君に、友達はいませんでした。
正確に言うと、たろう君は「友達を作らなかった」のです。
今まで、何人かの友達を作ったことはありましたが、転校による別れを何度も繰り返すうちに、
「こんなことなら、友達を作る必要なんかないや」と思うようになってしまったのです。
しかし、転校によって様々な環境で過ごしていくうちに、たろう君は人から好かれることもなく、嫌われることも無い「処世術」を身に付けることができたのです。
朝、町の人達とすれ違うときは「おはようございます」と挨拶をし、教室では暗い表情をせず、無難にクラスメート達の空気に合った振る舞いをし、近くの席の子が消しゴムを落としたら、率先して拾ってあげ、教科書を忘れた子には「一緒に見よう」と優しく声をかけてあげられるような少年なのです。
しかし、必要以上に他人と心の距離を縮めることはしませんでした。
そのため、どんな学校に転校しても、たろう君がいじめに遭う事はありませんでした。
そんなたろう君を見て、お父さんは「お前が良い子にしているから、お父さんは安心して転勤できるよ」と言うのでした。
たろう君は内心、「もう転校したくないし、ずっと一緒に遊べるような友達を作りたいよ」と思っていましたが、それではお父さんを辛くさせてしまうと思い、喉まで出かかったその台詞をグッと飲み込むのでした。
たろう君はいつも、新しい引越し先での生活が始まるたび、家の窓から双眼鏡で、外の景色を眺めていました。
町の周辺にどんな施設や建物があるかを知り、休みの日には気になった場所へ1人で探検しに行くのです。
ある日、たろう君は家の2階の窓から、町の外れにある湖を覗いていました。湖の周りには人工的な建物などは無く、木々や草花がたくさん生い茂っていて、その向こうには大きな山がありました。
たろう君は、自然に囲まれた綺麗な湖を、しばらく眺めていました。
すると、ある一匹の生き物を見つけたのです。
「あ・・・あれは・・・ピカチュウだ!」
たろう君は思わず声を上げて驚きました。
数年前、大量のピカチュウが近くの山からやってきて、この町を荒らしたことがあったと近所の人から聞いていたのです。
ピカチュウ達は商店街の食べ物屋さんの食べ物を食い荒らし、奪い去ろうとし、それを阻止しようとした人達が電撃で返り討ちにされ、死傷者が続出したらしいのです。
そのピカチュウ達は、二度と町へ来られないように、町中の人達で協力し、追っ払ったと聞いていました。
(「どうやって追っ払ったの?」とたろう君が聞いても、大人たちは「コラーッ!と叫んで脅かしてやったのさ」と適当に答えるだけでした)
そんなピカチュウが、この町の外れで湖の水を飲み、木に登って果実をもいで食べ、木の中の寝床でスヤスヤと眠っている。たろう君はその様子を双眼鏡越しに見て、胸が高鳴りました。
たろう君はマンガやゲームの主人公みたいに、ポケモントレーナーになってみたいと思っていたのです。そのため、ピカチュウ達がこの町を荒らしたという話を聞いても、たろう君はピカチュウに対してあまり悪いイメージを抱いていませんでした。
次の日、学校が終わると、たろう君は昨日、ピカチュウを発見した湖に行きました。
湖の空気は新鮮な酸素で溢れ、とても気持ちの良い場所でした。
しかし、他に人は誰も居らず、日が落ちかけていたせいか、少し不気味な雰囲気でもありました。
「この辺にいたんだよなぁ」
ピカチュウが湖の水を飲んでいた岸辺に近づいて、身を屈めました。
自分の顔を映す水面が、太陽の光を反射させて綺麗に光っています。
「あっ!!」
湖にザバン、と大きなしぶきが上がりました。たろう君がバランスを崩して落っこちてしまったのです。
「誰かっ・・・た・・・助けてっ・・・!」
たろう君はカナズチでした。パニックになり、手足をバタつかせますが、岸辺からどんどん身体が離れていきます。
「助けっ・・・!だれっ・・・かっ・・・」
たろう君の顔が口まで沈みかけた時、岸辺から木の棒が伸びてきているのに気づきました。
無我夢中でその棒を掴むと、ゆっくりと岸辺まで身体が引っ張られていきました。
湖の縁に手を掛け、ゲホゲホと咳き込みながら顔を上げると、そこには昨日双眼鏡越しに発見した、ピカチュウがちょこん、と立っていました。
「あっ・・・!?げっほッ・・・ごほっ・・・ぴ、ピカ・・・」
たろう君が無事であることを確認したのか、ピカチュウは一目散に木々の中へと走り去って行きました。
「あっ・・・まって・・・げほっ!げほっ!」
次の日もたろう君は、湖に足を運ばせました。
今日は商店街で美味しいと評判の、手作りパン屋さんのクロワッサン持っていきました。
溺れた自分を助けてくれたピカチュウに、恩返しをするためです。
「おーい!ピカチュウー!昨日はありがとうー!
今日は美味しいパンを買ってきたよー!」
たろう君が何回もピカチュウにそう呼びかけたのですが、なかなか姿を現さなかったので、ピカチュウが木々の中に走り去っていった辺りに食べ物を置いてくることにしました。
家に帰り、たろう君は双眼鏡でピカチュウを探しました。
すると、たろう君が置いてきたクロワッサンを、木の上で美味しそうに頬張るピカチュウの姿が見えたのです。
「良かった、ちゃんと食べてくれてる・・・!」
たろう君はそれから毎日、ピカチュウに食べ物を送りに行きました。しかし、ピカチュウがたろう君の前に姿を現すことはありませんでした。
それでもたろう君は食べ物を送り続け、家の2階の窓から、食べ物を頬張るピカチュウを双眼鏡越しに眺めていました。
ある日、いつものようにたろう君が食べ物を置きに行くと、いつもの場所に木の実が数個、置いてありました。
たろう君はそれが、ピカチュウからのお返しだとすぐにわかりました。
「お返しなんていいのに・・・」
たろう君が照れくさそうに笑うと、目の前の草木の陰から、ピカチュウの尻尾がぴょこんと見え隠れしているのに気づきました。
「・・・あ!ねぇ、尻尾・・・見えてるよ」
たろう君がそう言って笑うと、その尻尾は「ギクリ」としたように草木の中に隠れました。
その代わりに、今度は長くて黄色い2本の耳が、葉の上から飛び出しました。
「今度は耳が出ちゃってるよ・・・。ねぇ、隠れてないで、こっちにきてよ。
僕と・・・友達になってよ」
たろう君は、自分自身が発した言葉に驚きました。
今まで一度も、クラスメートに「友達になって」と言った事など無かったからです。
少しの沈黙の後、草の陰からピカチュウがひょこりと顔を出しました。表情は少しばかり強張っています。
「ねぇ・・・木の実、ありがとう!あとこの間も・・・僕が溺れていたのを助けてくれたの、君だよね・・・?
本当にありがとう・・・。
ねぇ、一緒にパン、食べようよ・・・?」
ピカチュウはじーっとたろう君を見つめた後、一歩、また一歩と恐る恐る近づいてきました。
たろう君は腰をかがめ、手にパンを持ってピカチュウに差し出します。
そのパンをピカチュウが両手で受け取ると、たろう君はにっこりと微笑みました。
ピカチュウは「ピカピ・・・」とだけ呟きました。
その日から、たろう君には友達ができました。とても小さな小さなお友達でした。
たろう君は毎日、ピカチュウに会いに湖に通いつめました。
ピカチュウはたろう君を警戒していたのか、頭を撫でようとするとプイ、と嫌がったり、たろう君と一緒にパンを食べるときは、少し距離を置いていました。
しかし、たろう君がピカチュウに心を開いて接したことで、次第にピカチュウもたろう君に心を許すようになったのです。
いつからか、たろう君が頭を撫でるとピカチュウは「チャア~」と嬉しそうに鳴き、たろう君の側でパンを食べ、たろう君に抱きしめられながら一緒にお昼寝をするようになりました。
ピカチュウが採ってきた木の実のすっぱさに二人で口をすぼめたり、湖の側ですましたポーズを取るピカチュウをたろう君がスケッチしたりもしました。
ピカチュウとの出逢いは、たろう君の生活をとても鮮やかに彩らせたのです。
たろう君もピカチュウも、心を通わせていくうちにお互いの考えや言葉が、少しずつわかるようになりました。
そんなたろう君は、ずっと気になっていたことをピカチュウに訊いてしまうのでした。
「ねぇ、ピカチュウ。君の仲間は、向こうの山に住んでいるの?」
「ピ・・・ピカ・・・?」
「ずっと前に、町の人から聞いたんだ。たくさんのピカチュウが町にやってきたから、あの山に追い払ったって・・・。仲間と一緒に住まないで、ピカチュウは寂しくないの・・・?」
たろう君はピカチュウの顔を見てハッとしました。
ピカチュウはとても暗い顔でうつむき、耳もたらん、と垂れ下げています。
『訊いてはいけないことを訊いてしまった』とたろう君が気づくのは、あまりに遅すぎました。
「ごめん・・・なんでもない・・・よ。本当にゴメン・・・」
たろう君はピカチュウを抱きしめました。ピカチュウはたろう君の胸の中で、静かに涙を流しました。
その夜、たろう君がピカチュウに訊いた質問の答えは、思わぬ形で知ることになりました。
たろう君は、夢を見たのです。
いつもたろう君がピカチュウと遊んでいる湖を、上空から見下ろしている夢です。
数十匹のピカチュウが湖の側で、グッタリと倒れていました。全員、顔が真っ青で、目の焦点が定まっていません。
SF映画に出てくるような変なタイトなパワードスーツを着た人間が、数人居ました。
何らかの組織なのでしょうか、それぞれがパラボラアンテナのような装置を背負っていました。
その装置でピカチュウ達の脳波をコントロールさせ、身体を麻痺させているのでしょう。
その組織の他には町の住人達が居ました。
たろう君と顔見知りの人も何人か居る気がしますが、なにせ夢の中なので、顔がぼやけてはっきりと誰かはわかりません。
ただ一つわかることは、皆、恐ろしいほどの狂気と殺意に満ちていることです。
手にはバットやナイフなどの凶器を握り締め、ピカチュウ達を取り囲んで怒号を飛ばしています。
「このクソネズミ共ォ・・・!!覚悟しやがれってんだ!!」
「俺の母ちゃんがテメェらのせいで・・・どうなったと思ってやがんだ!!あぁ!?」
「殺しても殺し足りねぇ・・・!!地獄を味わうだけじゃ生温いってんだ・・・!!」
「俺の娘と妻を・・・よくも・・・!!よくもヤッてくれたなあぁぁぁーーー!!」
「殺せッ!!殺せぇぇぇぇーーー!!」
住人達はピカチュウを殴り、蹴り、切り刻んで虐殺の限りを尽くします。
親ピカチュウが子ピカチュウを庇い、覆いかぶさります。ナイフを持った男が親ピカの背中に、刃を突き刺します。
「ヂャアァーーーッ!!」
そのままナイフを縦に引き、ヒラメの縁側のようにぱっくりと背中が切り開かれました。
親ピカチュウは絶叫します。その声に反応して子ピカも「ちゃあぁ~~~!!」と泣き叫びます。
子ピカは背中から鮮血を噴き出させる親ピカの前で、目をくり貫かれ、鼻を削がれ、腹を切り裂かれて断末魔と共に臓物を零れさせられました。
ある男は両手でピカチュウの首を絞めながら「よくも娘を、よくも妻を」と、何度も何度も呟いてピカチュウ達を絞殺しています。
ピカチュウの電撃で母親が危篤状態にさらされた少年も居ました。たろう君と年齢は離れていないようにも見えました。
その少年は子ピカの前で、親ピカチュウを高電圧式のスタンガンで焼き殺しています。
初めは弱い電撃で、徐々に電撃を強くしていき、親ピカの苦しむ様を子ピカに見せ付けていました。
火で熱した鉄の棒を、ピカチュウの口の中に突っ込んでいく人もいました。
ピカチュウは口の中で火山が噴火したような、凄まじい熱で目をひん剥き、手足をメチャクチャにバタつかせています。ノドチンコの奥まで棒を突っ込まれ、オゴオゴとした変な泣き声をあげています。
ピカチュウ達の断末魔は止まることなく、湖に響き渡っていきます。
その中で、かろうじて意識のある親ピカチュウが、暴徒と化した住人達の目を盗み、自分の子ピカを口でくわえて木々の中へ逃げ込みました。
そして、木の中に作った穴蔵の寝床に子供ピカチュウをかくまったのです。
親ピカチュウは声にならない声で
『何があっても・・・お前だけは生きて・・・』と子ピカに告げ、子ピカから離れるように地を這いずりだしました。
子ピカはその場を離れ行く母ピカに向かって、
『お母さん・・・行かないで・・・側に居てよ・・・怖いよ・・・』と泣こうとしますが、スーツを着た男達の装置によって、まともに声を発することも、母ピカの姿を見つめることもできませんでした。
数秒後に、人間が高らかに笑う声、まるでカーテンを乱暴に引き裂いたような音と共に、母ピカの絶叫が聞こえました。
子ピカは、ガタガタと震えて、泣いて、いつ終わるか解らない悲しみと恐怖でおかしくなってしまいそうでした。
そこで夢が終わり、たろうくんは目を覚ましました。自分が号泣していることに驚きました。
やけに現実感のありすぎる夢、いえ、現実で起きたことがそのまま夢の中で再生されたような、とてつもない恐怖で、ただただ泣き散らすしかありませんでした。
たろう君は、全てを悟りました。同時に、ピカチュウになんて辛いことを訊いてしまったんだろう、と後悔しました。
ピカチュウ達はこの町に来て、食べ物を荒らしたり、人々に危害を加えました。
その因果として、町の住人達に報復を受けた中で、かろうじて生き残ったピカチュウ・・・それが、僕の友達になったピカチュウだった────。
ならばなぜ、ピカチュウは人間である自分を危機から救ってくれたのだろう・・・?
ひょっとしたら、ピカチュウは自分たちの犯した罪の償いとして、溺れていた自分の命を救ってくれたのではないか・・・?
たろう君は、その自分の推測が正しいのかどうか、わかるはずがありませんでした。
その日、たろう君はいつものパン屋さんで、ピカチュウに特別美味しいパンを買っていくことにしました。
パン屋のオジサンはいつも笑顔で、毎日たろう君と朝の挨拶を交わしていたので、いつの間にか仲良くなっていました。
朝会ったときは、出来立てのパンをこっそりくれたりする、とても優しい人でした。
「オジサン、こんにちは」
「ああ、たろう君、こんにちは!今日も買っていってくれるのかい?」
「うん!今日は、いつもとは違ったパンにしようかと思ってるんです」
「おお!そうかい!ありがとう!じゃあ、こんなパンはどうかな・・・
ふんだんにバターを使ったこだわりメープルパンに、焼き芋のブレッド!どちらも焼き立てでオススメだよ!」
「うわぁ美味しそう・・・!じゃあそれ2つずつください!あといつものクロワッサンも!」
「毎度あり!今回もお値段は少しオマケしておくね」
「いつもすみません・・・!どうもありがとうございます」
「こちらこそ。・・・たろう君、今日はなんだかすこ~しだけ元気が無いようだけど、何かあったのかい?」
「え、いえ・・・そうですか・・・?なんでも、無いですけど」
たろう君は昨日の一件で、ピカチュウが気を悪くしていないか、一日中心配だったのです。
それが顔に出てしまっていたようです。
「それなら良いけど・・・悩み事があったらいつでも相談に乗るからね」
「オジサン、ありがとう・・・」
「それにしても、いつもこんなにたくさんのパンを1人で食べるのかい?」
「え、あ、いや、1人では、無いです・・・」
一瞬だけ、オジサンは不思議そうな表情になりました。
「そうなのかい?兄妹とか、いたっけ?」
「い、いえ、居ません。ちょっと・・・お友達と食べるんです」
「おお、そうかそうか!もしかして、女の子かい!?」
「ち、違いますよ!男の子です・・・!(多分・・・)」
「あははぁ~なぁ~んだ、そっかぁ!
オジサンに娘が居たときも、よくこうやってからかったもんだ・・・ははは・・・
今度、是非、そのお友達を連れておいで!サービスするよ」
「は、はい・・・!いつか、必ず・・・!あ、友達が待っているから、今日はこれで、失礼します・・・!」
「おお!そうだね・・・じゃあ、またね、たろう君!」
「はい!・・・ありがとうございました」
たろう君はパン屋を出ると、急いで湖に向かい、今日もピカチュウと一緒にパンを食べ、たくさん遊びました。
ピカチュウは昨日のことなど気にしていないようで、いつものようにたろう君の側で美味しそうにパンを頬張っていました。
「ピッカ~♪チャアァ~♪」
「このパン、焼きたてなんだってさ!美味しいね!」
「ピカピカー!」
パンを食べてピカチュウとボール遊びをしたたろう君は、木陰でピカチュウを抱きしめてお昼寝をしました。
ピカチュウは幸せそうな寝顔を浮かべています。たろう君が頭を撫でると、膨れたお腹を上下させて
「チュスゥ~・・・ピィ~カ・・・チュスゥ~・・・」と気持ち良さそうに寝息を立てました。
たろう君は、お互い、たった1人の、かけがえのない友達・・・ピカチュウの境遇を想うと、ピカチュウのことがとても愛しく感じられるのでした。
それから数日後、たろう君のお父さんは、神妙な面持ちでたろう君にこう告げました。
「タロウ、すまない・・・急な話なんだが、また引越しをすることになった・・・」
たろう君は茫然自失となり、めまいを起こしました。そしてすぐにお父さんに聞き返します。
「そ、そんな・・・!!いつ・・・引っ越すの!?」
「明後日、土曜日の朝だ」
「きゅ、急すぎるよ・・・!!イヤ・・・だよ・・・」
「そう言わないでくれ・・・本当に、毎回辛い思いをさせてしまって、申し訳ないと思っている・・・許してくれよ・・・タロウ」
たろう君は、部屋で1人、泣き続けました。いつもなら「わかったよ」とお父さんに一言言って引越しの荷造りをするのですが、今回は涙が止まらず、それどころではありませんでした。
やがてたろう君は泣き止んだあと、双眼鏡でピカチュウの様子を見てみました。
ピカチュウは寝床でスヤスヤと眠っています。
「ピカチュウ・・・」
たろう君は拳を握り締め、ある決意をしました。
ピカチュウを捕まえるのです。離れるのがイヤなら、捕まえればいいのです。ポケモントレーナーのように。
それが、たろう君にとっても、ピカチュウにとっても一番幸せなことなのだと、信じてやみませんでした。
引越しの前日、金曜日。
たろう君は学校が終わると家へ帰り、ランドセルを置いて、大きめのリュックサックを背負い、パン屋さんに向かいました。
「オジサンこんにちは!昨日のパン、すっごく美味しかったです!また今日も同じのください!」
「おおたろう君!こんにちは!それはどうもありがとう!」
「あ、それと・・・オジサン。実は僕、明日の朝に引越しちゃうんです」
「えぇ!?どこにだい?」
「わからないけど・・・多分、また遠い町だと思う・・・」
「そうか・・・寂しくなるなぁ・・・。今までありがとうね、たろう君。よし!じゃあ今回は特別サービス!
好きなパンを持ってお行き?」
「そ、そんな・・・悪いですよ!ちゃんとお金は払わせてください!」
「いいんだよ、たろう君。君は本当に可愛い子だ・・・。オジサンに・・・子供が居たときのことを思い出させてくれて、すごく幸せだったよ」
「え・・・?」
たろう君は『オジサン、昨日「娘が居た」って言っていませんでしたか?』と訊ねようとしました。
が、すぐにその台詞を飲み込みました。冷や汗をかきそうになりました。
『娘が
居た』
過去形なのです。先ほどの文脈から考えるに、娘さんは居ないのでしょう。すくなくとも、オジサンの側には。
この間みたいに、余計な発言をしないよう、徹しました。
「僕も、オジサンみたいな優しい人と出逢えて、幸せでした。本当に今までありがとうございました」
「たろう君、君は、小学生とは思えないくらい、本当に立派だね・・・。将来、とても・・・それはとても立派な大人になるよ。楽しみだ」
オジサンはたろう君が好きなパンを二個ずつ、大きな袋に詰めてくれました。
「今からお友達にも会いに行くんだろう?持ってお行き」
「あ、お金・・・」
「いいの!気にしないで。じゃあ、ね、たろう君・・・」
「お、オジサン・・・ありがとうございました!・・・お元気で・・・!」
オジサンの優しさに涙しながら、たろう君はピカチュウのもとへ走りました。
ピカチュウはいつも通り、たろう君を見つけて胸に飛び込んできました。
「ピカピー!チャー!」
ピカチュウは笑顔でたろう君の胸に頬をすり寄せます。服の上からでもピリピリとした静電気を感じます。
たろう君はピカチュウを抱き締めて、暗い声で告げました。
「ピカチュウ…大事な話があるんだ・・・」
「チャア?」
「実は、僕、明日…この町から引越しちゃうんだ…」
「ピ、ピカ…?」
「明日から、君と…会えなくなっちゃうんだ…」
「ピカ、ピ…?ピカ…チュ…?」
たろう君の言葉に、ピカチュウの表情も暗くなり、目に涙が溢れてきました。
「だからさ、ピカチュウ…!僕と一緒に、この町を出ようよ!僕と一緒に暮らそうよ…お願いだよ…!」
「ピカ・・・ピカピ…!ピカァ・・・」
ピカチュウは急な告白に戸惑いを隠せないようです。
「他の人間が怖いのはわかるよ・・・。でも、絶対に!絶対に僕は、君を守る!君が僕を助けてくれたように!
僕は君と一緒に居たいんだ!ずっと友達で居たいんだ・・・!!」
たろう君は背負っていたリュックからパンを取り出し、リュックの中を広げました。
「この中に入って!この町の人には見つからないようにするから!平和な町で、僕の家族と一緒に暮らそう!」
「ピカピイ…チャアァ…!ピカァ・・・・・・!」
ピカチュウの目からは、涙がたくさん流れていました。嬉しかったのです。人間に迫害され、親やたくさんの仲間達が殺されたピカチュウにとって、たろう君の言葉は、まるで魔法のように、ピカチュウの心を温かく包み込んだのです。
ピカチュウは視界をぼかす涙を拭い、たろう君のリュックに手を伸ばします。
銃声が鳴り響いたのは、その瞬間でした。
「ヂャアアァーーーッ!!!」ピカチュウは悲鳴を上げ、血を撒き散らして2mほど吹っ飛びました。
地に伏せ、低く呻くピカチュウの右足から、トクトクと血が流れ出ます。
たろう君は一瞬、何が起こったのか理解できず、声もあげられませんでした。
そして、首をゆっくり、右に回すと信じられない光景を目の当たりにしました。
大きな木の陰に、銃を構えた男が居たのです。
「オジ、サン・・・?」
先ほどまでタロウ君にパンをくれたオジサンは、別人のような鬼の形相をしていました。
銃を構えたままタロウ君に近づき、銃口をたろう君の眉間に定めます。
「重罪なんだよ」
オジサンはこれまで聞いたことのないような低く、とてもドスの利いた重い声で言い放ちます。
「な、なに・・・が・・・」
たろう君が言葉を発し終わる前に、オジサンが話し始めます。
「この町でポケモンを保護することは、重罪だ。子供だろうと、例外ではない」
たろう君の身体は、知らぬ間に震えていました。
「ポケモンを保護した者は、女、子供だろうと問答無用で死刑。もちろん、ポケモンもだ。
発見次第、誰が殺しても構わないと言い渡されている。
数年前・・・このネズミ共は私達、町の住人達を危機にさらした。食い物を荒らされ、何人もの商売人が店を畳んだ。
何人もの家族が、電撃で焼き払われた。
だから、駆除したんだ。この湖で、ある組織に依頼して・・・。
一匹残らず根絶やしにしたと思っていたが・・・まさか生き残りが居たなんて、誰も思ってやしなかっただろう・・・。
たろう君、これは、【質問】ではなく、【尋問】だ・・・。
君は、今・・・
何をしていたんだい?」たろう君は恐怖のあまり、震えるだけで話すことなどできませんでした。
もし、本当のことを言ってしまえば、オジサンはこの場で、躊躇い無く自分とピカチュウを殺すでしょう。
「ポケモン・・・特に、その電気ネズミは・・・害悪以外の何者でもない・・・。
私の・・・娘と・・・!妻も・・・!そのネズミに殺されたんだ・・・!!」たろう君はハッと気づいてしまいました。あの恐ろしい夢の中で、何匹ものピカチュウを絞殺していた男、それは、いつも笑顔で美味しいパンをくれる、このオジサンだったのです。
オジサンは怒りと哀しみを顕にして顔を真っ赤にし、たろう君よりも全身を激しく震わせています。
「たろう君!!言え!!言うんだ!!君はここで何をしていた!?
友達とこの湖で待ち合わせをしていたところを、そのネズミに襲われたのか!?
それとも・・・!!まさかとは思うが、このッ・・・薄汚い!!電気ネズミに!!私が丹精込めて作ったパンを喰わせていたのかッ!?それも、毎日ッ!!
返答次第では、君を殺さざるを得ないぞ!!」「ぼ、僕は・・・・・・ぼ、く・・・は・・・」
たろう君は、本当のことを言うつもりでした。
ピカチュウと友達になったこと。
ピカチュウと毎日、この湖で遊んでいたこと。
オジサンが作ったパンを、ピカチュウと一緒に食べていたこと。
町の住人の狂気の手から、ピカチュウを逃れさせようとしたこと。
全てを告白するつもりでした。
大切な友達を裏切れるワケが無かったのです。
「ぼッ・・・!!僕ッはッ・・・!!ピカチュウッ・・・をッ・・・!!」銃を構えたオジサンの右手の人差し指に、力が加わります。引き金が引かれようとした、その瞬間でした。
「ビガアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」ピカチュウが、たろう君が地面に置いたパンの袋に飛びついたのです。
無我夢中でパンを漁り、乱暴に喰い散らかしていきます。飢えた醜い猛獣のようでした。
「ピ、ピカチュウ・・・!?何を・・・!!」
たろう君はピカチュウの奇行に驚き、ピカチュウの方を振り返りました。
「ビイイッガアアアアァッヂュウウウウゥゥゥゥ!!!!」なんと言う事でしょうか。ピカチュウはたろう君に飛びかかり、手に噛み付いてきたのです。
「うっうわあああああああああああ!!!」
「ビガヂュッ!!ビッガアアアアアアアァァァ!!!ビガッヂャアアアァァァァーーーッ!!」ピカチュウはたろう君の腕を引っかき、腹に体当たりをしました。
たろう君はオジサンの方へ吹っ飛ばされました。
「っこ、このクソネズミイィ!!やっぱりテメェは害獣だアァァァーーーッ!!!」オジサンは無我夢中で銃を撃ちます。ピカチュウは負傷していない方の左足で飛びまわり、銃弾を交わします。
「ビガビガヂュッ!!ビガアアァァッ!!」そして泣き顔で精一杯、たろう君にこう告げたのです。
『逃げて』
たろう君は、全てを理解しました。
ピカチュウは、自分を庇ってくれているのです。
たろう君は死を覚悟で、ピカチュウを保護していたとオジサンに告げようとしました。
もし、そうしたのであったら、オジサンの銃から放たれた銃弾はたろう君の眉間を貫いたでしょう。
そうせないため、たろう君を守るため、ピカチュウは自ら『害獣』という悪名を被り、たろう君を襲い、パンを奪うという振る舞いをしたのです。
その証拠に、たろう君が噛み付かれた手、引っかかれた腕には傷一つ付いていません。
体当たりを喰らった時も、ピカチュウが身体の柔らかい部位で当たってくれたので痛みは微々たるものでした。
「ビガヂューーーッ!!ビィガァーーーッ!!」『早く逃げて!!』
ピカチュウは叫びます。
「うわあああああああああああ!!!!」たろう君は泣き叫んで町へ向かって走りました。そうするしかできませんでした。
突如、雨が降ってきました。たろう君の身体と、心を、冷たく包み込みます。
足元の土がドロドロになっていき、たろう君は足を滑らせて転んでしまいました。
「ううぅ・・・うぅ・・・!!」
振り返ると、銃が弾切れになったのか、オジサンは木の棒を持ってピカチュウに振りかぶっていました。
フルスイングされた木の棒はピカチュウの顔面にヒットし、真ん中から折れました。
短くなった棒を持ち替えて、オジサンはピカチュウの腹に、背中に、目に、棒を突き刺しています。
それを見てたろう君はまた、胸の奥から溢れる感情を、言葉にならない叫びに起こし、家路を駆け抜けるのでした。
家に着き、泥だらけの服を洗濯籠に入れ、シャワーを浴び、部屋のベッドに入りました。
たろう君はピカチュウを思ってまた泣き出しました。
ピカチュウは、2度も自分を救ってくれた。
1度目は、自分の不注意による事故から。
2度目は、復讐に怒り狂ったオジサンの狂気から。
ピカチュウは、オジサンによって殺されてしまったのでしょうか。
もしかしたら、瀕死の状態まで追い詰められて、町の人達と一緒になぶり殺されるかもしれません。
たろう君はピカチュウへの申し訳なさと、自分の無力さ、不甲斐の無さに打ちひしがれて泣き続けました。
そのまま、いつの間にか泣きつかれて寝てしまいました。
夜。
たろう君は目を覚ましました。
時計の針は、もうすっかり22時を回っていました。
車の走る音や人の話し声が聞こえない、いつも通り、静かな夜の町でした。
たろう君は、泣き腫らしたせいで真っ赤になった目を擦り、いつものように双眼鏡で、家の近くの湖を、恐る恐る覗きました。
たろう君は、ハッと息を飲みました。
湖の側には、丸焦げになった死体が見えたからです。
「オ、オジサン・・・!!」湖の側で、パン屋のオジサンが丸コゲになって倒れていました。
恐らくピカチュウが電撃を放ったのでしょう。
たろう君は、何度も、何度もその丸コゲの死体を見つめました。
体格的に、その死体はパン屋のオジサンで間違いなさそうでした。
では、ピカチュウはどこに行ったのでしょうか?
オジサンが死んでいるということは、ピカチュウはまだ生きているのではないか?
微かな希望を見出し、たろう君は血眼になってピカチュウを探しました。
「あッ・・・ああぁ・・・!!」たろう君はピカチュウを見つけました。
月明かりに照らされているピカチュウは、身体中傷だらけで、ゼェゼェと息を切らしながら、湖の岸辺に向かって這っています。
たろう君は安堵し、涙を流しました。
ピカチュウが・・・生きている。
今すぐ、ピカチュウの元へ行こう・・・。
ピカチュウにお礼を言おう。二度も自分を救ってくれた、大切なピカチュウに、今すぐ会いたい。
今度こそ、ピカチュウを、僕の家族として迎え入れるんだ・・・。
たろう君は、胸に熱く溢れる想いをピカチュウに伝えるため、双眼鏡を置いて部屋を出ようとしました。
その時でした。
ピカチュウが湖の岸辺で何かを拾おうと手を伸ばしたその時。
「ピカアァァー!」なんと、ピカチュウは泥で滑ってしまい、悲鳴を上げて湖に落ちたのです。
「ピ、ピカチュウ!?」
たろう君も思わず、叫びました。ピカチュウは苦しそうな表情で、バタバタと手足を動かし、溺れているのです。
あの時のたろう君と同じように。
水中で傷口が開いたのでしょうか、その顔は身体中の痛みに耐えているようでもあります。
ピカチュウの周りの水面が、メチャクチャな波紋を描き、血で赤く濁っていきます。
目からは涙を流し、泣いていました。顔が水中に沈んで、浮いてを繰り返し、顔面がビシャビシャに濡れていきます。
ピカチュウは溺れながらも、必死に口をモガモガ、パクパクとさせて何かを叫んでいます。
それは、たろう君の名前を呼んでいるようでした。たろう君がピカチュウに会いに来たとき、ピカチュウが喜んで鳴き声をあげるときの、あの口の動かし方と同じだったのです。
ピカチュウはたろう君に助を求めて叫ぼうとしているのです。
しかし、声になりません。口の中に水が入って邪魔してくるのです。
岸辺に手を掛けても、先ほど雨が振ったせいで、泥で手が滑り、上手く岸に上がれません。
泥を引っ掻いては岸から離れ、また泥を引っ掻いての繰り返しでした。
たろう君は絶望のあまり、思考が停止し、叫ぶことも、助けに行くこともできませんでした。
ただ双眼鏡越しに、大切な友達が溺れ行く様を見つめるしかできませんでした。
ピカチュウの手足の動きは段々と鈍ってきて、口から上の泣き顔を水面に浮かばせるのが限界となりました。
そして月が浮かぶ夜空に向かってたろう君の名前を叫ぼうとし、そのままアブクを残して沈んでいきました。
暗く深い湖の底に沈む瞬間、ピカチュウは双眼鏡越しに自分を見つめるたろう君を、確かに、見つけたのでした。
たろう君はしばらく湖の水面を見つめていましたが、とうとうピカチュウは浮かび上がって来ませんでした。
その場に倒れこむようにして、たろう君は眠ってしまいました。
次の日の朝。たろう君は湖に行きました。
オジサンの死体は、なるべく視界に入らないように気をつけました。
そしてピカチュウが足を滑らせた辺りに、何か落ちている物を見つけました。
クロワッサンでした。
たろう君がピカチュウの為に買ったクロワッサンが、岸辺の泥にまみれていました。
恐らく、オジサンと戦った時の喧騒でにここまで飛んできたのでしょう。
ピカチュウは、これを拾おうとして湖に落ち、溺死したのでした。
たろう君は涙を流すことなく、そのクロワッサンを湖に放り投げました。
「本当に、いつもゴメンな、タロウ・・・」
「きにしないで」
たろう君は新しい町に向かうお父さんの車の中で頬杖をついて無愛想に答えました。
「なあ、落ち込んでいるのはわかっているんだが・・・何か、あったのか?」
「べつに、なにもないよ」
「そうか・・・そうか」
たろう君は、抜け殻のようになっていました。パン屋のおじさんが「立派な大人になる」という言葉が、何度も頭の中で浮かびリフレインしては消え、また頭のどこかで浮かび上がってきました。
そして、「自分はこれから、どんな人生を送るんだろう?立派な大人って、何なんだろう?」という疑問が溢れ
てきましたが、たろう君の人生でその疑問の答えはいつまで経っても解消されないままでした。
たろう君はその後、抜け殻のような人間となり、一生を終えるのでした。
おわり【あとがき】
どうやら最近、鬱系の話を書くのが好きになったようです。
僕はこういう救いようの無いバッドエンドが大好きです。
ちなみに今回の作品は、いつもとは違った文体で書いたのですが、理由があります。
この作品は、僕が大好きな「平山夢明」という作家さんの「C10 H14 N2(ニコチン)と少年——乞食と老婆」という作品が元ネタとなっております。(オマージュといった感じでしょうか)
この作家さんは僕がSSを書くにあたり、とっっっても大きなキッカケと影響を与えてくださった作家さんです。
僕の書くチンカスSSなんかとは比べ物にならないくらいにグロテスクで後味が悪く、かつ、ユーモラスに溢れた作品を世に残しています。
興味がありましたら、是非読んで見てください。
オススメは短編集の「他人事」が読みやすく、話もわかりやすいのが多いです。
ハンターハンターの富樫氏の解説も載っています。
- 2013/03/01(金) 01:47:02|
- 鬱系
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